4月30日(月)曇りときどき雨
失敗したと思った炭焼きだがまずまずのできあがりだった。数年前,美星町の「中世夢が原」で金尾好雄さんの講師によるドラム缶炭焼きを合宿して習った。たしか金尾さんの職歴はカーボン(炭素繊維)を素材にした製品を作る化学技術者であった。その人が夢が原で炭焼き講座を持ち,多くの受講者がつめかけた。合宿がよかった。神楽伝承館で炭の科学的組成などを金尾さんから教わり,「武士の館」に場所を変え,夢が原オリジナルのお酒「夢見て候?」をいただきながら夜が更けるまで合宿者と炭談義をした。金尾さん考案のドラム缶による鑑賞炭も作った。カボチャやひょうたん,とうもろこし,果てはススキまで炭化させた。そのとき一首浮かんだ短歌もどき「炭焼きの煙が白から紫へもう焼け炭化(たんか)夢が原流」を夢が原の本格的な炭窯の上に板に墨書され掲げてくださった。
きのうの炭焼きも,煙が白からむらさき色に変わるころが火を落とし窯を密閉するタイミングだったわけだが,ちょっと遅かった。それでも歩留まり40%というところだろうか。雑木だからあんまりいい炭ではないが,焼き肉や焼き芋をするのには使える。連休中1回は焼き肉が食べてーなークランベリーの花
4月29日(日)雨
連休2日目。1日目はうれしくて何も手につかなかった。師匠について畑を眺めに行き,ニガウリをどこへ植えるか,鉈豆はどうするか。とかで,畑から港の方をながめるだけだった。今日は2月に切り倒した雑木をドラム缶釜で炭にしようと思いたち,詰め込んで火を入れた。ドラム缶では6時間ぐらいで炭ができる。昼頃着火して,午後6時頃土をかぶせた。釜が冷えるのに一昼夜かかる。釜のそばに咲いた「金ぐさり」の花に煙が当たり花は迷惑だっただろう。
ツバメが来ないといっていたのは原因がわかった。本当にかわいそうだった。玄関を開けたとき入ったのはよいが,2階のロフトまで上がりそこから外にでようとしたが出られず,家の者が気付かないまま力つきたようだ。何千キロも飛んできてこんなことになろうとは思わなかったであろう。師匠が埋めてやったそうだ。巣はいまも空である。
宮部さんの『模倣犯』を読み終わった。週刊誌に3年連載し2年後に単行本となった大作である。大事に読ませていただいた。暗い重たい主題だが,宮部さんの結末はいつもすがすがしい。それに自分だけうれしいことがある。それは「あとがき」で発見した。宮部さんが精神医学について取材された東邦大学医学部の助教授に小生も今年の2月お会いしている。仕事で先生にお願いに行ったわけであるが,その先生のお話が宮部さんの小説の中の犯罪心理を表現する素になっているようだ。ちょくせつ関係はないがそれでもうれしくなる。
それと今日はたいへんだった。パソコンがおかしな調子になり,渡辺さんとその2男さんにまたもやお世話になった。
4月22日(日)晴れ
昨日の宵のうちは山の友達と久しぶりに寄り合うことができた。2次会では昔の歌を歌った。今度は蒜山でキャンプだ。鮎を食べさせてくれるという。楽しみだ。
寝る前に宮部さんの新作『模倣犯』下巻を読んだ。この人の作品は何を読んでもすごい。文章一行ずつゆっくり味わいながら読みたい。今回のものは凄惨な殺人が話の骨格にあるが,やはり現代社会のあらゆる事象が織り込まれており,時事評論を読んでいるようでもある。本を閉じたのが午前1時を過ぎていた。
きのうし始めようとしてストップをかけられていた花壇をつくった。何で止められていたかはわかっている。美的なことには無頓着にブロックを並べるからである。yoshikoさんの指示の下,土を掘り下げ糸を張り,ブロックを並べた。土は弟のところのものを失敬した。できた花壇に何を植えるかだが,ほんとうは鉢の中で大きくなりすぎたブルーベリーを植えたかった。しかし,花壇の場所が焼却炉のあった跡なので,きっとダイオキシンがかなりあるであろう,そんなところへ果物は植えられないという結論になった。そこで昨年買ったミニコニファーを植えることにした。やはりミニで大きくなっていない。『趣味の園芸』にあるガーデニングのような大きさになるまでにはさらに時間がかかるであろう。それまでは野良猫のトイレとなるのか。それも癪なのでレモングラスを間に植えた。レモングラスはネコがきらうと聞いている。ひとりばえのスノーボールの白がきれいだ。カモミールも咲いているがあまりいいにおいがしない。
4月15日(日)晴れ
今朝も朝日がまぶしい。カーテンを開けたのが8時前だった。貧弱な体にも筋肉があるらしくあちこちが痛い。明日はさらに痛むと思う。
今日はもうひとつの畑にブルーベリーを2本移植した。昨年7本植えたが一本枯らしてしまい,補植したことになる。ピートモスによく水を含ませ掘り起こした赤土と混ぜた。単用がいいといわれているが地植えだから我慢してもらう。灌漑ができないので夏は水を運ばなくてはなならい。水やりを怠けたから去年は枯らしたのだ。
師匠にいわれホームセンターでトマトの苗を買った。接いだ苗は180円もするので普通の苗を買う。58円。サツマイモのメリクロン苗も買った。「種子島紫」というむらさき芋だ。これもいっぺん買ったことがあるが種切らしたのでまた買ったことになる。むらさき芋は焼き芋にしてもおいしい。もうひとつブルーベリーの新種と思われる「ブルーシャワー」(ラビットアイ系)というのも買った。こうして買うのはいいがしっかり育てられるのかい。
yoshikoさんは春のお寿司をつくった。蕗にタケノコに山椒の入ったまさに春のお寿司である。子供のころは蕗と山椒が嫌いだった。それが今は木の芽和えなど大好物となった。今日の木の芽和えはイカの代わりに竹輪が入っていた。ちょっと歯触りが物足りないが木の芽和えはタケノコを食べるのであるから良しとする。それにしてもyosikoさんは竹輪を使うのが得意だ。焼きそばにも肉ではなく竹輪を使う。まあええけどなあ
4月14日(土)曇りのち一時雨夕方には晴れ
師匠が山の畑にサツマイモを植えるので,その下ごしらえのため管理機(テーラー)を山の上に持っていった。細い里道なので車輪を傾けて一輪車のようにして上がる。これが結構技術がいるのだ。なれないときはよその畑につっこんだこともある。
暑くもなく寒くもなくいい耕運日よりだ。天気予報は昼から雨といっていた。ナズナ(ぺんぺん草)がかなり生えていたがそのまま管理機で耕す。師匠がその浮いたナズナを拾っていく。腰を曲げて拾うのでこの方がきついだろう。こうして師匠といつまで一緒にできるだろう。まだほとんど農作業を習い覚えていない。クワひとつまともに使えないのである。本当に農作業は根気のいる仕事である。
眼下には初節句を迎える家の庭に,大きな鯉のぼりが上がっているのが見える。春霞の中ゆうゆうと風を含ませて泳いでいる。
耕し終えると今度はチェーンソーを持っていき畑の回りに繁った雑木を切った。山林と化しつつあるわけだから少々のノコでは切れない。
苗床でむらさき芋がかなり芽吹いているのでこれが最初の芋づる苗となるであろう。
ブドウの芽も勢いが出てきた。
4月9日(月)曇り一時雨
今年はツバメがまだわが家に来ないので母はやきもきしている。去年はスズメがツバメの巣を荒らすので栗のいがぐりを入れてスズメを来させないようにしたりしていた。今年はスズメが巣を荒らさないと安心しているのにツバメが巣に寄りつこうとしない。巣の中に異物でもあるのだろうかと思い手を入れても見たが特に異状はない。どうか早く来て母を安心させてほしいものである。
叔母が急逝したこともあり,しばらく師匠について畑に行っていない。畑のそら豆はかなり大きくなっている。草も伸びている。草刈機用のガソリンは買ってきた。準備万端だが今度の休みは暑いんだろうなあ。西川の桜が満開だ。桃の花とのコントラストがいい。
3月27日(火)晴れ
職場までの通勤経路は駅をおりてから西川沿いを行く。今,コブシと白木蓮の花の真っ最中である。コブシは白い和紙の反古のようで,白木蓮は白い鳩を連想させる。いろいろ気になることが絶えないが,このひとときの眺めはそれらを忘れさせてくれる。桜より一足早く春を知らせるのがこれらの花である。コブシは苗を植えてから咲くようになるまでは何年もかかる。。西川のコブシも木の姿からして相当年月がたっている立派なものである。白木蓮の台木はコブシと聞いている。
3月20日(火)晴れ
少し薄曇りもあったがよく陽が照った。平年よりかなり暖かいそうだ。やはり彼岸である。お墓のそばにある菜園を見に行く。すでにジャガイモが植え付けられているがまだ芽が出ていない。ブロッコリーが無惨に鳥につつかれており,葉の軸だけになっていた。しかしそばにある高菜は全然食べられていない。どうしてだろう。高菜は食べてぴりっとするところがあるから鳥も好まないのだろうか。不思議である。
ブドウの棚だが,塩ビ用の接着剤を買ってきて,土曜日の続きをした。パイプをT字形にたて,3本の針金を張りその上にツルを誘引した。品種は去年植えた「安芸クイーン」だが果たして今年少しでも花が着くだろうか。ブドウ作りは難しいと聞いているが楽しみである。
3月17日(土)雨
彼岸の入りだが朝からそぼ降る雨をいいことにごろごろする。ばあ様も新聞を読んでいるのでそっとしておく。yoshikoさんは中学の卒業式へ。そうなんだ寿志の卒業式なんだ。来週は高校の入試発表である。
夕方小降りになった。去年植えたブドウの木が少し生長したので棚を作らねばなるまいと思い,ホームセンターへ材料を買いに行った。イレクター(商品名)というパイプがよかろうと思い,接続する部品と合わせて買ってくる。木の棒を立てて針金を渡せばよかろうとおもうが,ちょっとはかっこよくと考えこれでやってみることにする。パイプの接続面に接着剤が必要のようだが買ってきていない。作業は中止。
沈丁花の甘いにおいが湿った空気を伝って流れてくる。レンギョウも咲いている。
明日は恩師西林先生の墓参りにクラスの仲間と高梁へ行く予定。
3月11日(日)晴れのち曇り
今日も朝日がまぶしい。去年の夏枯れた松を始末しなければならない。脚立を立てかけるが,やはり上から枝を落としていくしかないと思い,木に登る。ノコも小さいので能率が悪い。切れ味も悪い。松葉も枯れているのでノコをひくとバラバラ下に落ちるし,首筋にも入り気持ちが悪い。切る前にノコの目立てをすればいいのだが,中休みを兼ねて目立てをする。やはり切れ味がよくなった。それでも小一時間はかけ,枝を落とした。下で女性軍が枝を燃やしている。本当はたき火の方が好きなんだけど。ついでだからそばのバベ(ウバメガシ)も切れという。もう腕が疲労で限界にきているというのに人使いの荒いばあ様だ。
やっと地上に降り立ち,たき火を引き継ぐ。たき火は好きだ。火に勢いがあれば少々生木でも燃える。杏の花が咲き始めているのに無理矢理剪定をした。生け花にするつぼみの部分を少し残し,この剪定枝も燃やした。よく燃えるようについつつく。めがねはプラスチックレンズだから火に近づいてはいけないのに本気になってたき火にのめり込む。ここらではたき火をドンドという。正月の注連縄を焼くのをドンド焼きというからそこらへんと関係あるのだろうか。とにかくドンドをするのが好きだ。木をもやすたき火は心が落ち着く。なーんて自分だけだろう。
ドンドが終わるころ,空が曇り少し落ちてきた。ああ今日もそんなに見習うものはなかった。サツマイモの芽が吹くのはいつ頃だろう。
3月10日(土)曇り
朝から風が強く,古屋敷の庭の剪定をしてもらった残滓を焼こうとするが大きくは燃やせない。
カボチャやスイカの苗を上げる培養土を作ってくれと言われ,適当に作る。苗床はすでに真砂土が入れられできあがっていた。
ジャガイモも昨日植えたという。どうも実習する間がなかったが,内心ほっとしたりして本当にやる気がないと思う。
霜にやられた(もっとも家の中に避難させてやらなかったからだが)クジャクサボテン,月下美人も片づけなくてはならない。今年こそはシャコバサボテンの鉢替えもしなくてはならない。思うだけで練馬の福田さんや九州の北御門さんのように実行が伴わないのがイチロウさんだ。
3月はいろんな植物が目を覚ます時期だ。風は冷たいが,ブルーベリーなどの花芽は大きくふくらんでいる。yoshikoさんは仕事なのにごろごろしながら焼き芋を食べて昼寝をしてしまった。
3月4日(日) 晴れのち曇り
カーテンが開けられ,外の日射しが一気に入り込む。「おばあさんは畑にいきょうたよ。機械を使こうてくれるんじゃろうかとぶつぶつ言いながら」yoshikoさんがおっしゃる。あわてて着替え長靴をはく。夕べはざーっと降ったようだ。もう20年以上使っているテーラー(小型管理機)を引っ張り出す。ガソリンが少ない。4リットル缶に少し残っていたのを入れた。ひょっとしたら草刈用の混合油だったかもしれない。ええいままよ。始動用のひもを引っ張るがかからない。最後に使ったのは秋だから5か月前だ。点火プラグをはずしてみる。湿っている。掃除をしてみたがやはりかからない。道具箱の中のさび付いた点火プラグの汚れを拭き,それを代わりに付けてみた。エンジンはかかった。やれやれ,一畝ほど打つのに段取りに小一時間もとられてしまった。前夜雨が降っていたのでローターが土の中へすんなり入り込む。10分ほど行ったり来たりしたら耕し終わった。「あとはええ。わしが持って帰るけー」とおばあさん(実は母)。ローターをはずしておっぽらかしてテーラーを走らせとっと帰ってきた。
これから春ジャガイモ(ここら辺ではキンカイモという)を植える。去年はうるさく言うこのおばあさん神経痛で入院していた。今年はぼつぼつ畑仕事を習い覚えようと思う。こうして見習いの記録をつけようと思いはじめたわけである。
昼からは玉島の文化センターに行った。今回は黒柳徹子さんによる「幸せの背くらべ」を観た。
以前書いたことを忘れないために
五 月 に 思 う
毎年五月ごろになると思い出します。それはやわらかい風が汗ばんだ額を通り過ぎていく心地よい感じです。春ゼミの鳴き声とさわさわという松風の音がまざりあったものです。
山の畑のそばにある松の木の下で休んでいるときでした。眼下には港が見えます。江戸時代の頃は良港(備中玉島港)として栄えたといいます。山の畑は麦が青々としていますし,麦刈りが終わると除虫菊の花が真っ白です。祖父母をはじめ両親も営々と天まで耕してきた瀬戸内の段々畑でした。畑の東側に肩を並べる小高い山には,あの「良寛さん」が若いころ越後の国から修行に来ていた「円通寺」というお寺もあります。
思い出される風景は皆きれいに感じますが,それを支える農作業が重労働の毎日だったことは間違いありません。精一杯仕事をしていた祖父の姿も目に浮かびます。決して手を抜くことはなかったひとつひとつの作業が豊かな農産物をはぐくんだのだと思います。
いつの頃からか山の畑は作付けされなくなり,いまは見る影もなく荒廃して,もはや山林の様相を呈しています。西側の松林との境界もわからなくなりました。その松も枯れ,ニセアカシアが繁り,葛のツルがはびこっています。
かろうじて,山裾に近い畑に老母が自家用の野菜を作るだけです。そこまでも石段や里道をあるいて登っていく場所なのでなかなか容易ではありません。祖父母ら先祖が毎日上り下りして守ってきたのです。
荒れ果てた畑を目にすると,忸怩たる思いにかられるこのごろです。現在は勤め(公務員)に出ている身ですが,母の元気なうちに農作業を習い覚え,定年を迎えても家族が食べる野菜などは作って,畑の荒廃を少しでも防ぎたいと思っています。そのためにも健康を維持しながら現在の仕事に励み,定年帰農のできることを夢見ています。
縁あって愚息が農大の地域環境科学部にお世話になっており,私にも農業を見直す機会が得られました。どんな勉強をしているのだろうかと思いながら農大のホームページなどものぞいてみます。息子は治水利水の勉強をしてみたいと言っていましたので,少しうれしくなりました。
失った豊かな緑を取り戻すには何倍ものエネルギーが必要です。ですがそれに気付いた若者たちのためにも,いま私ら団塊の世代が,日本の国土の保全と環境を守ってきたのは農業なのだ,ということを伝えなくてはならないのではと思っています。その農業は季節の移り変わる速度とつきあう仕事です。父や祖父に教えられたことです。「畑はゆっくりと一鍬ずつ打っていけばいい」と。
(息子の行っている学校の後援会雑誌に掲載されたもの)
園芸のページに