マルセ太郎さんのこと
 マルセ太郎という名前をはじめて知ったのは,平成4年,東京へ研修に行く途中,新幹線の中で横の座席に座られたご婦人からである。駅弁を共に出して食べていたせいか言葉を交わすようになり,芝居の話になった。そのとき今日も小さな公民館でマルセさんの公演を見てきたばかりだという。その人は歯医者さんだったがマルセさんの一人芝居のことを熱く語った。「スクリーンのない映画館−泥の河」というものだったという。宮本輝さんの『泥の河』は,小栗康平監督の映画でも見たことがあるので知っている。それを一人で演じるのだというがイメージがわかない。そのときは東京での研修のことも気になり,マルセ太郎さんのことは忘れていた。

 マルセさんをじかに目にしたのは美星町の中世夢が原でだ。ここでいろんなイベントを企画している日高さんというかたがマルセ太郎の熱烈な信奉者で,夢が原「神楽伝承館」でマルセさんの公演が実現できると言われた。さっそく家内と申し込み,座布団をかかえて見にいくことにした。この日はNHK衛星第二放送がマルセさんのドキュメント番組を制作するということもありテレビカメラを据えていた。あとでその番組を見ると画面の端に自分たち夫婦が映っているではないか。美星町公演を企画した人をフォローしていた中に写り込んだのだ。平成8年5月18日だった。

 藍染めの作務衣のような衣装で出てきたマルセさんは,今日は『泥の河』だけではなくスクリーンのない映画館にたどり着くまでの自分の芸の変遷をくわしく話された。『泥の河』ののぶちゃんときっちゃんの表現が本当によかった。

 売れない時期が長く,猿の形態模写も申年の正月を過ぎればお呼びがなくなったとか。それでも定期的にライブ活動を続けられたそうである。転機は映画を批評する形で一人で演じたのを観客の一人永六輔さんが絶賛したことから,さらに黒澤明監督の『生きる』などもレパートリーになり,その数は20を超えるそうだ。

 マルセさんはそのときすでに肝臓ガンに冒され,定期的にガン細胞をやっつける手術をしないといけないと言われていた。
 あのときから,直接公演を見る努力をしなかったが,気になる芸人の一人ではあった。
 マルセさんのホームページものぞいていた。ページの名も「マルセ太郎中毒の会」というものでこんなにもマルセさんのファンがいるのかと驚いたものである。

 平成12年の暮れに,日高さんよりご自分のホームベースである西大寺で『生きる』の公演を「五福座」でやるという案内をいただいたが残念ながら行かなかった。今から思うとマルセさんの最後の公演だったのではないだろうか。
 マルセさんは今年の1月22日岡山の川崎医大病院で亡くなられた。くやしい。西大寺の公演を見ていないからでもあるが,あんなに感動を与え続けた人がもういないと思うと本当にくやしい。

 今手元にはマルセさんにサインをしていただいた著書『芸人魂』がある。
 もう一度マルセさんの残したかずかずの言葉をゆっくりと噛みしめてみたい。
(2001.2.18)

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